最近、友人にドキュメンタリー映画を紹介してもらいました。 森達也監督による「 A 」と「 A2 」です。 今から約10年前に日本を、そして世界をも震撼させたあの事件を、私は当時のマスコミ報道による視点とは全く違う角度から客観的に観察できました。 このドキュメンタリーフィルムについて、私は多くを語るつもりはありません。 ただ一つ明確に再認識した事は、「何か一つの情報が入ってきたら、 それを 180度違う角度から、そして、360度に扉が存在する限り、全ての扉を明けてみるべきである、つまり、違った角度から同じ物事を観察する事を、探求すべきである」ということであります。
「知らない」という事を知っている人間ほど偏見がなく、自分に物事をジャッジする能力が備わっていない事をわきまえているような気がします。 「知っている」と勘違いしている井の蛙ほど偏見の塊となり、この世の紛争、衝突の原因になるのではないか、とも思います。 『井の中の蛙大海を知らず』という荘子の言葉がありますが、紀元前3〜4世紀から人間は未だこの点に関して何も進化していないのでは?
監督は自ら「僕はオウムを窮地から救いたいとか、オウムの宣伝をしたいとか、そんな気はありません。 あくまでも僕自身の目で、今のオウムの本質を捉えたいだけです」と述べ、それに対し被写体に選ばれし荒木氏は「わかっています。」「〜テレビという影響力の大きいメディアで発表していただけるのなら、私としてはそれで充分です。」と答えていました。 しかし結果、テレビで放映する事ができず自主制作となってしまいましたが。。。 森氏の同僚、メディアのど真ん中にいる人間は、「一連のオウム事件はメディアにとってはバブルみたいなもんだ。 番組ならともかく、今さらオウムの自主制作ドキュメンタリーだなんて、誰も観ない」と言い放ったそうです。
結局、テレビという媒体はビジネス的発想のもと、いかに万人にウケるか、視聴率がとれるか、といった「ものさし」が基準になっており、決して真実だけを伝える媒体ではない、という事を前提に観ている視聴者はどれくらい存在するのでしょうか? そして、そのような媒体がとても大きな影響力を与えているこの世を恐ろしく思います。 「ニュースや報道番組には“音楽”を使用すべきではない。 何故なら“音楽”によって作った側の主観がもろに視聴者に入り込むからだ。それも無意識のうちに。 一番たちが悪い。 メディアのマインド・コントロールにかかってしまう。」と監督は言います。 音楽にもろに携わっている私にとって、改めて“音楽”の魔力を再認識させられ、どれだけ「重い」ものと人生ともに歩んで来たか、、、考えさせられました。
しかし、いくらドキュメンタリーと言えども、隠し撮り以外の場面は、撮られている人間たちは、そこにカメラが存在し回っている事を自覚している、という事も忘れてはなりません。 つまり、いくらドキュメンタリーと言ってもそれが「真実」だとは限らない、という事です。 何故なら簡単に「演じる」ことができるからです。 例えそれが無意識だったとしても。。。
『A』を作るまでの監督、森達也氏はテレビ・ディレクターとして、「公正中立、そして不偏不党」である事を常に心がけ、実践していた「つもり」だった、、、しかし、そもそも人にはそんな能力は与えられていない、と言っています。 私も人間にはそもそも何が「悪」で何が「善」かを決める能力など備わっていないのだろうと思うしかありません。 実際、ドキュメンタリーが主観であると悟った監督は自ら、「映像はそもそも罠です。 〜この作品にもいろいろな罠が仕掛けてあります。 種明かしはここまで。 騙されないぞと思いながら観て下さい。」と面白い事を言っています。
私にとって大事なのは、多種多様の「主観」を観る事。 そしてそれらを一度自分の体内に入れ、消化し、そして、もう一度吐き出し、自分の肉体の一部としたい部分だけを残し、自分の「主観」を作っていく事。 そしてその確立させた「主観」を人に押し付けない事。 それが私の理想です。 結局この世の中は「真実」など必要としていないのではないでしょうか? みんなが必要としているのは共感できる「主観」なのではないか、と最近思います。 この世の中の善悪は「多数決」で決まる事が多い。例えそれが「間違った」判断だとしても。。。
「公正の座標は人それぞれの中で違う。」「何よりも中立な映画など見たくない。」という監督、森達也の言葉がとても印象的に残りました。 ドキュメンタリーという「作品」は事実ではなく、監督の主観なのだ、、、と。
「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」
このフレーズに、『 A2 』編集中に起きた 9 ・ 11 とその後の世界に対しての、森監督の祈りが込められています。
三村 奈々恵
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